尾上の桜 咲きにけり
すっかり水も温んだとはいえ、まだ朝夕に冷え込みは残る春の夕刻。
長くなってきた足元の影を見やりながら、屯所で待つ温かな夕餉を
ちらりと脳裏に浮かべた総司の視界に小さな影が映りこんだ。
「沖田先生?」
背後を歩んでいた隊士達の問いかけに片手を挙げて足を止めさせると、蟠る影に近づく。
沈む前の僅かな間、一層輝きを増す西日に照らされた路地の端。
無造作に置かれた大きな桶が作る深い闇の中に呼びかけた。
「出てきなさい」
びくりと身体を竦ませた影はそのまま動かない。
「おいっ、出てこいっ!」
総司が止める前に隊士の一人が手を伸ばした。
その手を避けて身を捩った拍子に、小さな身体が日差しの中に転がり出た。
「え? 童?」
「なんだ、迷子か?」
その男童は四.五歳だろうか。
細面で色白な頬はぷっくりと柔らかそうで、その上に位置する大きな瞳は
今にも転げ落ちそうに見開かれている。
ひと目で裕福な商家の子供だろうとわかる品の良い小袖を身に纏っていた。
「誰か町役を呼んで来てもらえますか?」
「はいっ!」
総司の指示を受けて身軽な隊士が走り去った。
迷子はひとまず町役が預かり、親が身に着けさせている迷子札があれば
そこから身元を調べて親元に送り届ける。
もしも迷子札がなければ、名前や特徴を寺社や橋の袂に建てられた迷子石に貼り出す。
町役が来るまでに身元に繋がる何かを聞き出そうとセイが童の前に膝をついた。
「坊、どこの子かな?」
できる限りの優しい声で尋ねるが、小さな唇は硬く引き結ばれて何事も答えようとしない。
「迷子札は持ってないのかな? きっと母様たちが心配してるよ?」
それなりの家庭の子であれば首に掛けられているはずの迷子札を確かめようと、
セイが童の方へと手を伸ばした途端、小さな身体が弾かれたように後ろへ下がった。
「坊?」
あまりに過剰な反応にセイの手が空で止まる。
童は大きな瞳にハッキリと敵意を浮かべ、眼前のセイを睨みつけていた。
どうしたものかと引き戻された細い手と入れ違いに伸ばされた力強い腕が、
小さな身体を抱き上げた。
「沖田先生っ?」
「大丈夫。私達は意地悪はしません。ちゃんと家に連れて行ってあげますから、
心配しなくていいんですよ」
「・・・・・・」
両の眼をぎゅっと閉じ、身体を硬く強張らせていた童が恐る恐る瞼を開いた。
それに向かって総司がにっこりと笑う。
「もう怖い事はありませんからね。ここにいる人達はすっごく強いんですよ?
皆が坊の味方をしてくれます。ちゃ〜んと守ってくれます。ねぇ?」
「「「は、はいっ! もちろん!」」」
目の前の遣り取りを見守っていた隊士達が突然話を向けられて、慌てて笑みを作り頷いた。
「ね?」
ぽん、と子供抱きにされた背中を叩かれた童の眼に、みるみる涙が盛り上がった。
「う、わぁぁぁぁぁんっ!! あぁぁぁぁんっ! うぇぇぇぇんっ!」
目の前の首に縋りつくように回された手は、細かく震えている。
肩口の黒い生地にみるみる涙の染みが出来ても、総司は気にする素振りも無く
童の背を撫でている。
「よしよし、大丈夫ですからね。すぐに家へ帰れます。大丈夫大丈夫」
ぽんぽんと背を叩かれる度に童の泣き声が弱くなっていき、強張っていた身体から
少しずつ力が抜けていくのが傍からも見て取れた。
「沖田先生は、子供の扱いがお上手ですよね・・・」
思わず呟いた山口の言葉に総司がニヤリと笑う。
「ええ、どっかの大人未満の未熟な隊士のおかげで慣れましたからね」
「大人未満の未熟な隊士って、誰の事ですかっ!」
思わず荒げたセイの声に、童が怯えたように顔を上げた。
「あ、ごめん、ごめんね。キミの事を怒鳴ったんじゃないからね」
慌ててセイが手を伸ばし、懐から出した手拭いで涙と鼻水でドロドロの顔を拭った。
ふう、と溜息を吐いた総司が優しい声音で腕の中の童に問いかける。
「それで、坊はどうしてこんな所にいたんでしょ? 親御さんとはぐれたんですか?」
童が総司の眼を見つめて首を振った。
「やっぱり、そんなところでしょうね」
「どういう事ですか、沖田先生?」
セイに問いかけられた総司が眼を細めた。
「普通、迷子の理由は親とはぐれる事にありますけど、巡察路の中でもこのあたりは
特に治安の良くない場所でしょう? こんなに身なりの良い子供が親に連れられて
くる場所じゃない。つまりは、かどわかされたと考えるのが妥当じゃないかとね」
「坊? 怖い男の人に連れてこられたの?」
その言葉に顔色を変えたセイが尋ねると、総司の腕の中で童がコクリと頷いた。
「怖い人たちはどうしました?」
「壁に穴が開いてて・・・」
「逃げてきたんですか、たいした坊ですね。強い子です」
セイが総司の腕から童を受け取りぎゅっと抱き締めた。
「可哀想に、怖かったね。よく頑張ったね」
優しい温もりに安堵して、再び泣き出した童の頭を総司が撫でる。
「なんだかなぁ」
「ああ、なんだかなぁ・・・」
話の途中で総司に指図され、物影に隠れた隊士達が複雑な表情でそれを見守っている。
どう見ても夫婦が子供をあやしている姿にしか見えないのだから。
彼らの視線の先で、父親が妻と愛し子を背後に庇って振り返る。
それを路地から飛び出してきた柄の悪い男達が取り囲んだ。
土方の指示で少し前から隊服の着用はしていないため、こちらが新選組だと
わかっていないのだろう。
「何だテメエらはっ! そのガキをこっちへ寄越せ!」
「人様の獲物を横取りするつもりかっ!」
擦り切れた衣服の胸元から鈍い光を放つ刃を引き抜いた者達は、
どこの路地裏にでもいそうな博徒の集団だった。
「神谷さん」
「はいっ!」
呼びかけだけで、幼子に血生臭い場面を見せるなという総司の意図を汲み取ったセイが、
童の頭を胸に抱きこんで後ろに下がった。
同時に隠れていた隊士達が一斉に飛び出してくる。
振り返る間もなく地に倒れる博徒達。
「死者無し。全員捕縛。結構です」
冷ややかな総司の言葉が忍び寄る宵闇の中、静かに響いた。
それから数年。
巡察を終えて屯所へ戻って来た一番隊が、門前に蹲る小さな影に気づいて足を止めた。
「お疲れ様でした。ここで解散とします」
先頭を歩んでいた組長の言葉を聞いた背後の隊士達が屯所の門へと吸い込まれていき、
後に残ったのは総司と数人の隊士だけだった。
彼らの視線の先では男童が地面にペタリと座り込んでいる。
子供に不似合いな黒い小袖は、皆と同じものが着たいのだと駄々を捏ねて
母に作ってもらったものだ。
前に立った総司が、ふわりと童を抱き上げた。
「こんなところで何をしてるんですか?」
「・・・・・・・・・」
柔らかそうな頬は桜色に染まり、ぎゅっと唇を噛み締めて総司を睨みつけてくる。
一見すれば癇癪を起こす寸前に見えるその顔も、総司にはすぐ裏側の感情が読めてしまう。
強い光を発する瞳を覗き込みながら、この童の一日を頭に浮かべた。
「お昼寝から起きたら、母上がいませんでしたか?」
うりゅっと潤んだ瞳を確認し、抱き締めるようにしてポンポンと軽く背中を叩く。
「うっわぁぁぁぁんっ! えぇぇぇぇんっ! ははうっえぇぇぇっ!」
同時に大きな泣き声が響き出した。
今日は土方も近藤も外出しているはずだ。
母が不在であろうと、大好きな近藤か大大大好きな土方がいれば何ら問題は無い。
たとえかまって貰えなくても、近くにいるというだけで安心感があるのだろう。
だが頼れる二人がいない日に、昼寝から醒めたら母まで居なくなっていたのだ。
童が寝ている寸時の間にと、母親が買い物に出た事は想像に難くない。
けれど童にとっては世界が闇に染まるほど不安な思いを抱いた事だろう。
だからこそ、こんな場所にぽつねんと蹲って母の帰りを待っていたと思われた。
「母上はすぐに戻ってきますよ。大丈夫です」
「祐太っ?」
総司の声に重なるように慌てた声が響いた。
「あ、総司様、お帰りなさいませ。相田さんも山口さんも、お疲れ様です」
門前に立ったままだった仲間達に軽く会釈したセイが、総司の元へと駆け寄った。
「すみません、総司様。祐太が寝てる間に帰ってくるつもりだったんですけど」
「私じゃなくて、この子に謝らないと。貴女の帰りをここに座り込んで待っていたんですよ?」
母の声を聞いた途端に泣きながら手を伸ばしていた童を受け取り、セイは苦笑する。
「まったくもう。武士の子が、こんなに甘ったれでどうしましょうね」
「ははうぇぇぇぇ」
「いいんじゃないですか? 私も九つの歳までは甘ったれの泣き虫でしたし」
セイの腕の中にいる我が子を愛し気に見やり、涙と鼻水でドロドロになった顔を
自分の袖で拭ってやる。
「ちょっと、総司様っ! 袖でなんて拭かないでくださいよっ!
洗濯が大変じゃないですか!」
「あ、ああ、すみません。つい・・・」
「つい、じゃないです! もう、いつもいつも! 汚すのは簡単でも綺麗にするのは
大変なんです、って何度申し上げればおわかりに」
「はいはい、すみません。お詫びに次の非番の日には、私も洗濯を手伝いますから」
「ゆうたもっ!」
いつの間にか涙の止まっていたらしい祐太が、仲間に入れろとばかりに両手を上げた。
「あははっ、では三人で一緒にお洗濯しましょうか?」
「はいっ!」
「何を言ってるんですか。また副長に怒鳴られますよ?」
呆れたようなセイの呟きも聞こえないとばかりに総司が息子と笑みを交わす。
「母上のお手伝いですもの、いいんですよね〜?」
「ね〜?」
こんな時ばかり気の合う父と息子なんだから、とセイが溜息を吐いた。
「なんだかなぁ・・・」
「ああ、なんだかなぁ・・・」
目の前の二人が夫婦となるずっと前から身近で見てきた男達が遠い眼をする。
「俺さぁ、むかぁしこんな光景を見た気がするんだ」
「ああ、俺もだ」
思えば現在この二人が住んでいる少しばかり贅沢な家も、あの時助けた童の縁で
親しくなったその祖父が貸してくれているものなのだと土方から聞いていた。
京洛で知らぬ者の無い豪商の跡取りである幼子を救ってくれた新選組に、
その商家はこぞって協力的になった。
恐ろしい思いをしたはずの幼子が、まるで遊山から戻って来たように
楽しげに明るい顔で帰宅できたのが、穏やかに微笑む背の高い男と
隣で何やら童と笑い合う年若い少年のおかげだとすぐに知れた。
鬼と呼ばれる一番隊組長と阿修羅と呼ばれる神谷という隊士は、いつの間にやら
幼子の祖父と昵懇になり、実は神谷が女子で二人が祝言を挙げると聞いた途端に
屯所に程近い隠居所を二人の新居にと申し出てきたのだった。
その家で、現在一家は平和に暮らしている。
「つまりはよぉ」
「ああ・・・」
山口が次に口にするだろう言葉を察して相田が相槌を打つ。
「さだめ・・・ってもんなんだろうなぁ」
運命とか宿命などというものなど、己の剣のみを頼りに生きる自分達は信じない。
けれどこの二人に関してだけは全てが幸せな現在、そしてその先にあるだろう
もっと幸福な未来に繋がる“さだめ”というものに思えてしまう。
そして恐らく自分達もそれを望み、願っているのだろう。
彼らの上に訪れる“もっと幸せな未来”という定めを。
「なんだかなぁ」
「ああ、なんだかなぁ・・・」
くくく、と笑みを零す男達の前で幼子が父に肩車をねだり、
暮れ行く空に手を伸ばしながら建物の中へと消えてゆく。
後に続く母が振り返り、仲間達の帰営を促す。
その刹那、鬼の住処であるはずの場所が温かな夕餉の待つ優しい家庭に見えた。
同じ思いを抱いた男達は顔を見合わせ、次いで童のように駆けだした。
高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
遠くの高い山の桜が美しくさいた。
人里近い低い山のかすみは、花が見えなくなるので、どうかたたないでほしい。
権中納言大江匡房